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東京地方裁判所 昭和37年(ワ)5212号 判決

原告 山田鋭輝こと宋鋭輝

被告 秋山芳雄こと崔童

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金四二八、二一〇円及びこれに対する昭和三六年一二月二一日より完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え、訴訟費用は被告の負担とする」との判決及び右金員支払の部分につき仮執行の宣言を求め、その請求原因として、

一、原告は昭和二三年三月二日親権者宋又永の長男として生まれたものであり、被告は肩書地に於て、廃品回収業及び古物商を営んでいるものである。

二、被告はその所有にかかる東京都品川区西中延一丁目一四六番地所在の倉庫(被告の住居から数間離れた場所にある)を殷煕州に賃貸し、同人は同所で電球製造業を営み、右倉庫の西側半分は事務所、その余の半分は工場をなし、宋又永は昭和二八年一一月末頃殷の許可を受けて右工場部分に原告をつれて住込み電球製造工として働いていた。

三、ところが原告は昭和二八年一二月四日午後〇時四〇分頃右自宅附近で被告の子崔大信と遊んでいるうち、同人と喧嘩し、自宅に逃げ帰ろうとして自宅になつている右工場部分の西北隅の巾約〇、六五米の硝子戸の出入口から工場内に逃げこむべく右出入口まで走つてきて、右戸に手をかけたとき後から追いかけてきた右崔大信が追いついて原告を押したため、原告はよろめいて右出入口の向つて左(西)側、傍の板壁に殆ど接着した通路上に置いてあつた被告の所持保管する硫酸約一斗入陶製の甕(直径約一尺五寸の円筒型で高さ約二尺)に突き当り、その甕が割れて硫酸が流出し、原告はこれを足部その他に浴びて火傷を負つた。

四、原告は当時種々の治療を受けたが、その後右足関節部は次第に火傷後の瘢痕を形成して内反足を生じ運動機能障害をきたしたため、昭和三六年七月頃より東京都品川区北品川一丁目六六番地第一北品川病院へ入院加療し、その治療費として金四一四、三四〇円・輸血代として金一三、八七〇円、計四二八、二一〇円を昭和三六年一二月二〇日迄の間に原告親権者宋又永において同病院に支払い、これにより同額の損害を蒙つた(かりに同病院に対し支払つた金額が金九四、三四〇円にとどまるとしても、同病院に支払うべき未払の治療費が少くともなお金二〇九、五〇〇円残存するから、これらと前記輸血代との合計金三一七、七一〇円の損害を少くとも受けたといえる。)

五、右甕入硫酸は元来被告が営業上商品のメツキをとる等のために使用していたもので、右甕は被告が殷に前記倉庫を貸す時には、前記工場部分に置いてあつたのであるが、硫酸は、毒物及び劇物取締法にいわゆる劇物に当り、保健衛生上その取扱に厳重な取締りが必要とされているものであるから一般にこれを所持保管する者は、その貯蔵容器を置く場所については安全な場所を選びまたは厳重な施設を施す等その保健衛生上の危害防止のため、万全な取扱をする義務があるにもかかわらず、右硫酸甕については、被告は、自らこれを始末せず右倉庫を殷に貸す際に同人に対し「硫酸が入つているが適当な場所へ片付けておいてくれ」と依頼したのみであつたため、右殷においては昭和二八年一一月末頃内部の改造をする際に右甕が邪魔になつたが適当な置場所がなかつたため、原告父子等が、通常出入する前記出入口の向つて左(西)側、傍の板壁に殆んど接着した通路上、右出入口附近でなにかの拍子によろめいたりした場合には直接これに突き当る危険性あるような位置に、右硫酸甕を移し置いたものであり、さらに被告においても事務所をなす部分に被告使用の電話が置かれていたため、被告もこれを使用するため、右出入口を出入し右甕が右のような場所に置かれていることも知りながら、これを放置しておいたため、原告が前記の如く、これに突き当り、本件事故が発生するにいたつたものにして、右事故は被告の過失に基因する。

よつて被告は原告に対し金四二八、二一〇円及びこれに対する昭和三六年一二月二一日から完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。と述べ、

なお原告は被告に対し、本件と同一事故につき、被告の同一過失に基き、原告が治療費として支出した金二〇万円、慰藉料金三〇万円将来の得べかりし利益の喪失金五〇万円合計金一〇〇万円の賠償を不法行為を理由として請求する訴を昭和三一年一二月三日東京地方裁判所に提起(同裁判所昭和三一年(ワ)第九五〇四号)し、同裁判所は、慰藉料金二〇万円のみ認容しその余の原告の請求を棄却し、双方の控訴により控訴審たる東京高等裁判所(同裁判所昭和三三年(ネ)第二五五九号第二六二三号)においては昭和三五年五月二五日終結した口頭弁論に基き、昭和三六年一〇月一六日言渡の判決をもつて慰藉料のみさらに金一〇万円が認容されたにとゞまつて、右判決は昭和三六年一一月中に確定した事実があるけれども、本訴の治療費は前訴の後である昭和三六年七月以降、同年一二月二〇日迄の間の治療費であり、右前訴における治療費は右前訴の提起時までの治療費であるから、本訴と前訴とでは訴訟物が異り、前訴の確定判決の既判力は本訴請求には及ばないことは勿論である。(このことは金銭のように数量的に可分な給付を目的とする特定債権について、債権者がその任意の一部を分割して請求するいわゆる一部請求が一般に認められることからも明らかである。)と述べ、被告の本訴損害賠償請求権が時効により消滅したとの主張並に過失相殺の主張はこれを争う。民法第七二四条にいう損害を知るという場合の損害は現実に発生した損害の意味であり、不法行為による身体損傷の場合、その性質上損害は後遺症の如く数年後に生ずる場合もあり、一律になんらかの損害を被つたことを知つたときより将来生じ得るかもしれない全損害の範囲に及んで消滅時効を進行させるということは全く妥当を欠くのみならず、治療費に関する損害賠償請求権はその性質上不法行為による身体損傷時において成立するものではなく、被害者、医師間に治療契約に基く治療費債務が成立したとき生ずるものなのである。原告が本訴において主張する治療費は昭和三六年七月頃になつて、手術せねば原告の運動機能障害は治癒しないことが明らかとなつた結果、入院手術等の治療を受けるに至つて生じた治療費で、このときに同額の損害が現実に原告に発生したのであるから、本訴損害賠償請求権については、三年の時効期間はこの時から進行するものと解すべきである。と述べた。

証拠〈省略〉

被告訴訟代理人はまず「本件訴を却下する、訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、その理由として、原告は被告を相手方として本件と同一事故につき被告の同一過失に基き昭和三一年一二月三日東京地方裁判所に治療費金二〇万円慰藉料金三〇万円を含む金一〇〇万円の不法行為を理由とする損害賠償請求の訴を提起し、同裁判所昭和三一年(ワ)第九五〇四号事件として審理され同裁判所は慰藉料金二〇万円のみ認容し、その余の原告の請求を棄却し、双方の控訴により東京高等裁判所は同裁判所昭和三三年(ネ)第二五五九号、第二六二三号事件として審理の上、同裁判所においては昭和三五年五月二五日終結した口頭弁論に基き昭和三六年一〇月一六日言渡の判決をもつて、慰藉料のみさらに金一〇万円が認容されたにとどまつて、右判決は確定した。

しかして右訴訟において原告は漠然と治療費として金二〇万円を主張したものであつて、原告が本訴で主張するように右前訴における治療費は右前訴の提起時までの治療費という趣旨はなんら認められず、もとよりその趣旨にそい、支出の日時、相手方、金額等を特定する具体的な主張もなされなかつたのである。従つて前訴における原告本来の主張は、金二〇万円の賠償がなされるならば、治療に関する損害は填補され得る、即ち原告の身体傷害は金二〇万円を要する治療によつて評価され得るというものであつたのであり、そうすると原告は少くとも治療費に関する限り、右前訴において既に全額という趣旨で請求しているのであつて、これにつき確定判決を経た後に、右前訴は一部にして他に請求し得べき残額ありとして新に訴を提起することは不適法にして許されないといわざるを得ない。と述べ、

本案につき「原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、請求原因事実に対する答弁として、

第一、二項の事実は認める。第三項の事実中、原告が原告主張の日時、場所において硫酸により火傷を負つたことは認める。第四項の事実中原告がその主張の如く内反足を生じ運動機能障害をきたしそのため第一北品川病院へ入院加療した事実は不知。その余の点はすべて否認する。第五項の事実中、被告が殷に原告主張の倉庫を貸す際、その工場部分に硫酸の入つていた陶製の甕(直径約一尺五寸の円筒型で高さ約二尺)が置いてあり、被告が自らこれを始末せず殷に対し「硫酸が入つているが、適当な場所へ片付けておいてくれ」と頼んだこと、殷が昭和二八年一一月末頃内部の改造をする際に邪魔になつたが、適当な置場所がなかつたため右甕を右工場部分の西北隅の出入口の向つて左(西側)、傍の板壁に殆んど接着した通路上に移し置いたこと、右個所が右出入口附近でなにかの拍子によろめいたりした場合は直接右甕に突き当る危険性があるような位置であつたこと、右出入口は原告父子等が出入する外、事務所をなす部分に被告使用の電話が置かれていたため、被告もこれを使用するため右出入口を出入していたことは認めるが、その余の点は争うと述べ、

抗弁として、本件事故は昭和二八年一二月四日発生したのであるから、原告が本訴を提起した昭和三七年七月三日は、既に本件事故発生より三年を経過した後であつて、原告の本訴損害賠償請求権は時効によつて消滅した。身体傷害により身体に加えられた損害は通常治療費という形で評価されるけれども、それは金銭的に評価するために便宜であるからであつて、損害としては身体傷害の事実自体であることはいうまでもない。しかも損害発生の事実を知つていれば、損害の程度や数額を知らなくても民法第七二四条にいう損害を知つたものにあたり、不法行為により身体に傷害を負い、その状態が継続し以後引き続き将来にわたつて損害を被る場合でも、被害者が不法行為のあつたこと、その結果なんらかの損害を被つたことを知れば、損害の数額や程度を知らなくてもその時から全範囲について時効期間が進行するのである。と述べ、

さらにかりに右が理由がないとするならば、本件事故発生現場附近は、元来遊び場ではなく、原告はここで遊戯中被告所有の工場内に馳け込もうとして硫酸入甕に突当り、これを倒して割り、流出した硫酸によつて、火傷を負つたものであるから自らの悪戯により損害を被つたものであつて本件事故の発生については原告にも重大な過失がある、また原告の親権者宋又永にも監督義務違反の過失がある。

よつて被告は過失相殺を主張する。と述べた。

証拠〈省略〉

理由

原告が昭和二八年一二月四日午後〇時四〇分頃原告主張の場所において硫酸により火傷を負つたことは当事者間に争いがなく、原告が被告を相手方として本件と同一事故につき被告の同一過失に基き昭和三一年一二月三日東京地方裁判所に治療費金二〇万円、慰藉料金三〇万円を含む金一〇〇万円の不法行為を理由とする損害賠償請求の訴を提起(同裁判所昭和三一年(ワ)第九五〇四号事件)し、同裁判所は慰藉料金二〇万円のみ認容し、その余の原告の請求を棄却し、双方の控訴により控訴審たる東京高等裁判所(同裁判所昭和三三年(ネ)第二五五九号、第二六二三号)においては、昭和三五年五月二五日終結した口頭弁論に基き昭和三六年一〇月一六日言渡の判決をもつて、慰藉料のみさらに金一〇万円が認容されたにとどまつて、該判決が確定したことも当事者間に争いがないところである。

しかして他人の不法行為により身体傷害を受けた場合、その治療の費用に関する損害については、被害者等が医師との間に治療の契約を結びこれに基き現実に治療費債務を負担するに至れば、これにより具体的な確定した金額まで明らかとなるので、これをもつて損害額を確定することが適当であるけれども、しかしかかる治療の費用に関する損害は、なにも常に右のような治療費債務の成立をまつて始めて発生するというべきではなく、蒙つた傷害につき、客観的に見て医師の手による一定の治療を必要としかつその費用が被害者や被害者の親権者の如き者の負担に帰すべきことが明らかとなるにおいては、未だこれらの者において医師に対し現実に治療費債務を負担するに至らなくても少くともその範囲においては既に治療の費用に関する損害は発生し、その数額も右に基いて算定し得ないものではないと解せられるところ、証人中山忠雄の証言及びこれにより真正に成立したと認められる甲第三号証並に証人河合和子の証言によれば、原告は、前記の事故により右足関節部に火傷を負い、その後次第に瘢痕形成し成長に伴つて顕著な内反足を生じて運動機能障碍を来したため、昭和三六年六月頃から昭和三七年一月頃までの間に二度に亘り、東京都品川区北品川一丁目六六番地第一北品川病院に入院して、右の内反足を生じた部位を略正常の位置に戻す手術を受けたのであるが、右の内反足の進み具合から見て、右のような入院手術は、客観的には、少くとも前訴の控訴審最終口頭弁論期日たる昭和三五年五月二五日当時既に必要とされる状態にあり、その費用は原告ないし原告の親権者の負担に帰する外なかつたものであることが認められるから、右のような入院手術の費用に関する損害は、少くとも前訴の審理中であつた当時から既に原告に生じていたものというを妨げず、しかしてまた、成立に争いのない甲第一号証の一、二、第二号証によれば、前訴において原告はただ単に治療費として金二〇万円を支出したとのみ主張したにすぎなかつたものにして、右甲第一号証の一、二、第二号証によると、右の治療費については原告は生活保護法による医療扶助を受けていたもので他に原告又は原告の親権者が自ら医療費を支出したものとは認められないとして、原告の請求は認容されなかつたものでありまた真正に成立した前訴の訴状と認められる甲第八号証中に、原告が金二〇万円の治療費等の費用を出費しという記載が既になされていたのではあるけれども、右の前訴における原告の主張をもつて、直ちに一部にして、その他と区別し前訴の提起時までの治療費のみに関するものであるとか、原告が支出したという文言から原告自身がそれも実際に支出した分のみに特に限定される趣旨であつたとかというようにはたやすく解し難く、かえつて右甲第一号証の一、二、第二号証によれば、前訴において原告は治療費として金二〇万円の支出を主張し、かつその蒙つた傷害はもはや治療不可能なものであるとした上、これを前提として慰藉料や将来の得べかりし利益の喪失による損害を主張したものであつて、前訴において右傷害についての治療の費用という損害が全部として原告より主張せられたものというべく、また前訴においては原告の蒙つた傷害は今後治療の可能性がないものとし、これをも斟酌して結局慰藉料金三〇万円が原告に認められたのであるが、原告においては昭和三六年六月頃より既に第一北品川病院において前記治療を受けながら、前記の控訴審判決を受けた上、被告本人尋問の結果によれば、右の如くにして認められた慰藉料金三〇万円を昭和三六年一二月下旬頃前訴の原告訴訟代理人において現実に被告より受領もしている事実も認められるから、いまさら原告において、前記第一北品川病院に入院加療したことによる治療費や輸血代の如きものを本訴において主張し、その賠償を被告に請求しても、これらにつき被告に損害賠償義務があると判断することは、前訴の確定判決の既判力に牴触してなし能わないところといわざるを得ない。

よつて原告の本訴請求はこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 園田治)

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